昭和45年03月24日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
「しっかり信心の帯をせよ」と。しっかり信心の帯をしたら、どう言う事になりどういうおかげが受けられるかと言う事ですね。教祖様はある方にこういうふうに教えておられますですね、「『盗人でも憎いと思わず、善心に立ち返るよう、可愛いという心にて、信心してやれ』と仰せられたり」とあります。盗人でも、ね、盗人でもかわいいという、ね、善心に立ち返るように祈ってやれと。
ここでは盗人じゃと言われてもと、言う事になっておる、ね。またその私はその内容としてですね、よく「神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ」と。それこそ根も葉もない事を言いふらして、如何にも自分が乞食をしたように、泥棒をした様に言うて、そら腹の立つ事だと。この事だけはひとつはっきりして、言い訳をしておかなければならんというのが、まあ普通のあり方で御座いましょうね、信心のない人の、ね。
他の事ならともかくも、ね、こう言う事を言われたのでは、腹の言わば虫が納まらない。と言い返したり言い開きをしたり、ね、しとかねばというのが、信心の私はない者の姿だとこう思うです。いや信心をしておっても矢張り腹が立つ、ね。けれどもそういう時にです、そういう時に、ね、神様が見てござるのだからと、ね、私共はもう人間を相手じゃない、神様が相手だと。
「神様だけがご承知の世界に生きぬくことが信心なんだ」と、分からせられて信心をしておる。そういう時に一段とです、一段と信心の帯をしっかりさせて貰う。私はもうそういう時にですね、一段と信心をさして貰うと言う所が、お互い欠けておるのじゃないかと思いますね。さぞ黙って辛抱しとくとか堪えとくと言う位までは出来るかも知れませんよね。「神が見ておる。しっかり信心の帯をせよ」と仰ることは。
そこからですね、ひとつもう一段信心を進めていくと言う事だと思うんですよね。「神が見ておる、しっかり信心の帯をせよ」と、ね。臍(ほぞ)を固めていわゆる腹を決めてかかれと言う事です、ね。私はそこから頂けてくるもの、そこから生まれてくるもの、ね。またの御理解にありますね。人が顔に係る様な事を言うてもね、腹を立ててはならん。神が顔を洗うてやると仰る所がありますよね。
神様が顔を洗うてやると仰る事はどう言う事だろうかと。只顔が立ったというだけじゃない。只顔を洗うて下さる、顔が綺麗になったというだけではない、ね。そこにはね、もうそれこそ広大なおかげが現れておる時なのです。顔を洗って下さると言う事はね。まあ例えて言うならです、椛目合楽を通しまして、なら私の信心を皆がどの様に言うて来たか。狐狸を使うのじゃなかろうかと、サクラを使うのだろうと。
椛目ではとにかくサクラを使うておるげなと。あちらは金光様と言いよるけれども、金光様じゃない。まあそれはもう人の言の葉(ことのは)には、もう戸が立てられんと言われるように、もう言いたい放題の事をまあ言われても来たし、それが実際に耳にも入ってきた。ね。けれどもこちらの心の中は、にこにこですもんね。何故って有り難い信心を頂いていきよるんですから。まあ知らん者は仕方がない。ね。
むしろ何か知らん、いわゆる教祖様がここんところに、教えておられますように、「それが盗人であってもですよ、善心に立ち返るように、可愛いものじゃと思うて祈ってやれ」と言う様な心が生まれてくるんです。ね。私はもうその事を忘れもしません。森部の高山さん達が、あれは正月の何日だったでしょうかね。家族中で親戚の者までも、オート三輪に乗せてそして。
椛目に参って来ておる途中で、大きなトラックと衝突、正面衝突しましてね、もうそれこそその三輪車はね、その三輪車はもうバラバラになったんですよ。後ろに5人か6人か乗っとったです。高山さん達夫婦、それから親戚の方達、とにかく4、5人乗っとったのがですね、もうそれぞれに飛び畑の中に跳ねやられてしまった。近所あの近所の親戚にあります、まあだ娘綺麗な娘さんがおりましたが。
娘さん等も乗っとったですけどもね、もうそれこそ不思議に怪我をしておりませんし、怪我をしておっても、そのちょっとした顔ではなかったですね。一番酷かったのは、高山さんのご主人の敏光さんでした。これはやっぱなんやっぱ、4、5日から一月くらい入しておったんじゃなかったでしょうか。もうそん時なんかは、ちょうどまあだその後ろに乗れるからして。
秋永先生ん所を誘われてですね、お婆ちゃん乗せていって下さいっち言いよったけども、とにかくまあ暇が手間がいるから、まあ先行きよって下さいっちゅうて、その行ってもらっとったから、おかげで秋永の人達は、まあその難を逃れた様な事だった。そしてほんなあの馬渡を出てすぐの所で、そういう事故に遭われたんです。もう17、8年も前のことで御座いましょう。ね。
ちょうど夜の御祈念を終わっとりましたら、高山さんですね、今そこに参って来ております高山さんが、もうやっとかっと、それこそ這うようにして、その一人参ってみえた。「実は只今こうこうでございました」とこう言うてお届けがありました。まあおかげを頂きましてですね、相手との話も都合良ういって、おかげで実際その締めくくってみたところが、大した怪我もなしに、まあ主人が病院に入院しましたけれども、それもちょっとの傷ぐらいでおかげを頂いたと。
と言う事がですね、翌日の西日本新聞にいかにも出とったでしょうが、新聞にその事故が出ておりました。しかも「椛目の金光様に参りがけ」と言う事が書いてあった。私はその時ちょうどその翌日、久保山の奥さんが参ってみえた時に私は、もう話よったら涙が流れて仕様がなかった。その時に私のことをもうそれこそ、まあ合楽その当時の椛目の事をですね、もう悪口にも悪口を言うて、もう今にも倒れたがよかっちゅうごとある言い方をしておった方達がありましたからね。
その方達がこの新聞記事を見たら、いくらか胸がすうっとしなされるじゃろうと思うたら、もうそれが有り難かったです私は。だからその事を私は久保山さんに、「もう私は本当にそれが有り難い」と言うて、話した事を今日ちょっと思い出させて頂いたんですけれどね。ほらもうこんなしかも椛目の金光様にお参りしよって、こう言う事が起こったっちゅうたら、自分の顔がなか。
金光様の顔に泥を塗ったじゃなくてから、まるっきり私の顔がないと言った様な思いは、さらさらなかったですね。私の事を悪口を言うておる、椛目の事を言うておる人達が、この記事を見たらいかに、胸がすうっとしなさるじゃろうかと思うたらね、もうそれが有り難かったです、私は本当にうん。いかに私がですね、私の事を泥棒じゃとか乞食じゃとかと、例えば言わんばかりの様なです。
それこそ人非人と言われたんですから。となら言われた人達の事を、私が祈っておったか、願っておったかということが分かるでしょうが。分からんものは仕方がない。いつかは分かる。必ず分かる。だから分からんその、期間は仕方がないと。それでもそのために、さあ椛目で人が助かる人がどんどん集まると聞きゃあ腹が立つ。という人達がです、その記事を見た時に、はあ気持ちがそれこそ。
ほうら罰かぶった。」と言う様なふうでもいいとにかく胸がすうっとしなさったじゃろうと、こう思うたら私はそれが本当に有り難かったです。話しよりましたら、涙が流れた。久保山さんも恐らく覚えておいでの事だろうと思うですその事を。「久保山さん私はこの記事を見よったら、本当に有り難うなった」と。それは私の事を泥棒じゃ乞食じゃと言うておる人達の心が、いくらか安らいだろうとこう思うたからなんですよ。
ですから、そこん所がです、ね、私は例えそれが、自分の事をどんなに悪口を言う人がありましてもです、ね、「さあ今に見ておれ」と言った様な気持ちじゃなくてです、分からんのですから、ね。そこでんならしっかり信心の帯をせよとこう仰せられる、しっかり信心の帯をしておったらどう言う事になったかというとです、相手の事が祈らなければおられないと言う事になってきた。ね。
もう本当にそういうお届けがありますよいくらも。向かいの人がこげん言いよんなさるですから、是だけはいっちょう言うとかにゃならんと思いますから。私はそういう時に、決して言いどもしなさんなって必ず申します。ね。それこそ神様が顔を洗うて下さるのだと。ね。だからそこでしっかり信心の帯をしなければ成らんと言う事です。皆さんもご承知のように、椛目時代ですね。
遅うもう12時頃まで御用を頂かれて、久富繁雄さんが帰られる途中に、椛目と勿体島の間であの様な事故に遭われた。相手は酔っ払い運転であり、しかもそのもう死んだ様になっておるのを放からかして逃げようとしたんですからね。それが自分の車がひっくり返ってからどうにも出来なくなって。もうそれこそあのままもう放からかされていたら、本当に死んでおられたじゃろうと思う様な大きな事故に遭われたんですよ。
でもうおかげを頂いて、まぁああいう奇跡的なおかげを受けられて、病院に入られた。入って一番口に重雄さんが言われたことは、「相手に怪我をさせた人ん所にも、怪我をしておりなさるんじゃろうから、果物カゴなっとうを持って、あのお見舞いに行けって」奥さんに言わっしゃったのが一番口じゃった。「ちょいともうほんにろくなやっちゃなか、もう、ほんとばってんもうもう許せない」と言うのではなくてですね、そこにお見舞いを持って行けっち。
そういう大きな事故に遭って、向こうから例えば免許も持たんじゃった、飲酒運転でもあったのだから警察沙汰になったら大変だから、あのまあ警察沙汰にしないでくれっち言いよったらそれも引き受けられた。後からあの保証のお金なんかでも、実はこげな事で貧乏して困っとるからっち言うてきたからそれも取られなかったね。もう本当にですね、私はそう言う事が言えたり出来たりすると言う事が信心だと思うんですよ。
これはもう、その先の、まあこぼれ話ですけどね、その時にああいう事故に、一万円お礼を持って来なさった向こうから。もう言うなら取り上げのちょうど忙しい頃でしたけん、勿論取り上げん、手伝いにたんびに見えたらしいですけれどもですね。もうそれこそもう普通で言うならけったくっていらんぼんのっちゅうごたるお金じゃ、例えその当時であっても。ね。ところがこれはなら頂いてならんばってん、と言うてもらわれたがです、ここにきがですね。
所がですねそれから何日かして、あの国雄さんがちょっとした事故をしましてね、ちょうど一万円お金がその金を出された。そして繁雄さんが後で言われる事にです、本当にあの一万円でも貰うちゃなりませんじゃったっち仰った、言われた事を私は覚えております。ね。ほんの何日かの後でした。きっちり一万円じゃった、いったつが。またちょっとした事故に会ってて。ね、
だから本当に御神意の深さとかね、広さというものが少しでも分かったらね、私はそういうことができれる私達、ね。それが私は和賀心でなくて、何であろうかと思います、ね。もうそれこそぎりぎりの私のことを悪口を言うておる人達の事をです、いわゆる教祖様はここにある、例えそれが泥棒であっても、善心に立ち返るように、かわいいと思うて祈ってやれとこう。ね。
今日の御理解から言うと今度は反対に、「泥棒じゃと言われ乞食じゃと言われても、腹を立ててはならんぞ、しっかり信心の帯をせよ」と、「神が見ておるから」と仰っておられる。ね。神様が見て御座ると言う事を信ずると言う事信心とは。神様が聞いて御座るんだと。だから赤面弁慶になって、言い訳する事もいらん、いやむしろせにゃ居られん様な所をです、しっかり信心の帯をさして貰う事によってどうなるかと。ね。
信心の帯をする事によってです、ね、その相手の事を祈らなければおられない事になってくる。それこそ果物のカゴをいっちょう持たせてでもね、おられんごとなってくる。ね。皆さんどうでしょうか。それによく似た事柄が、皆さんの家にも随分あった事だろうと思います。そういう時にね、腹を立てたら、もう信心の稽古をしておる値打ちはないのですよ。そういう時に赤面弁慶になって、言い訳に行くごたる事では、もう合楽に通うておる値打ちはないのです、ね。
そういう時にまあ一番、できなければならない事はです、ね、いわゆる本気で信心の帯をしっかりし直すことです。その先に生まれてくるもの。私は、ね、「はあ言わんで良かった」と、「あん時にああ言うとかんで良かった」と、「あん時喧嘩せんでおって良かった」と。私はその心が和賀心だと思うですね。神様がね人の口には戸は立てられん、どんなに神の顔に関わるようなことを言うても腹を立てるなと。ね。
「神が顔を洗うてやる」というふうに御理解下さっておるのでございますが、ね、その顔を洗うてやるということは、どういうことか皆さん、只顔が立ったと言った様な事じゃないのですよ、金光様のご信心の顔を、神様が洗うて下さる事になったら。皆さん考えてみてご覧なさい。もう胸がドキドキするごとある。
神様が顔を洗うて下さる時には、どう言う事になるかと言うとですね、丁度なら椛目時代に悪口を言われておった。それこそ泥棒じゃ、乞食じゃという、よりかもっとひどいことを言われておった様な時代があったけれどです、ね、そういう時にしっかり、私ども信心の帯をして、むしろその事をですね、可愛いと思うて祈ってやらして頂いておったら、神様がこのな顔を洗うて下さった。ね。
このようにして私の顔を洗うて下さった。やっぱりあげん言いよったばってん、大坪が言いよったこつもまんざらしらごつじゃなかったっちゅうごたるふうに、今、悪口を言いよった人達でも、ちいっとは見直してきたじゃろうと思う。顔を洗うて下さった。洗うて下さった時にはこのようなおかげを受けておるということなんですよ。ね。例えば昨日の御霊様のお祭りなんかを拝まれて、皆さんも感じられたでしょう。
それこそ年々歳々その都度都度に、ね、参拝者は多うなる、お供えは多うなる。助かっていきよる人が多くなっていきよるというしるしなんですよ。ね。顔を洗うて下さるとかね、と言う事はね信心の神が見ておると。しっかり信心の帯をしていきよればですね、神様が顔を洗うて下さるほどしのおかげになってくる。それは私の顔が立ったと言った様な事じゃないって。ね。
その事によって、信心が一段と信心の帯をしっかりされる所から、一段と信心が進んで行く所から、顔を洗うて下さった時には、いうならこの様な現在の合楽のこの様なおかげを受けられる、昨日の御霊様のお祭りでも頂いておると、いわゆるこの様なおかげが受けられる事になっておったと言う事なんですよ。そうでありましょうが、ね。私はその神様からね、顔を洗うて頂くためにです、ね、
しっかり信心の帯をしなきゃいけないと思うんです。いやむしろそこにです、今日私が教祖のこの後のお言葉の中から、引用して申しましたように、『盗人でも憎いと思わず、善心に立ち返るよう、可愛いという心に、心にて信心してやれ』と仰せられたりね。自分を傷つけた、自分の家の物を盗った。そういう者のことでもです、可愛いと思ういわゆる神心をもってです、いわゆる和賀心を持ってです。
善心に立ち返るように祈ってやれと。私はもう信心の妙(みょう)はここだと思うんですよ。人が馬鹿っちゅうたけん、俺がどこが馬鹿かっちちから、腹かくならもうもう信心の値打ちはなかです。ね。そこの先に神が顔を洗うて下さる、馬鹿じゃなかったという顔を洗うて下さる時にはです、もうこの様なおかげを受けておる。皆さんそこん所のおかげをね、何かそこん所を理詰めでいってから。
そこん所をいちいちケリをつけとかなければです、いけんように言うたり思うたりするような考え方は、ね、信心じゃあないいわゆる和賀心じゃない事になります。ね。同時にまたそういう例えば、腹を立てねばならんほどしの、悪口を聞いた時にはですね、やはりひとつ猛反省さして貰わなければならんことも事実ですね。そこには相すいませんと言う事になるのです。ね。
そういう例えば反省、いわゆる神様相すいませんという謙虚な心というものが同時にです、育ってそこから信心の帯がしっかり締め上げられていくところからです、その信心の帯を締め上げられたその先にです、信心の妙境というかね、いわゆる、はあ言わんでおってよかった、こうやって仕返しをしとかんでよかった、という心が湧いてくる。それを今日、私は和賀心だとこう思います。そういうふうに聞いて頂きましたですね。いつでも、どんな場合でも、ね、
そういうことが、即、そこで、そういう心が出てくるおかげを頂くためにです、常日頃しっかり教えを頂いておかなければならんと言う事になりますですね。「神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ」と。だからそういう何か切っ掛けというものはですね、いつもあるものじゃありません。ですからそういう切っ掛けの時を、切っ掛けをです、ね、私は一段と信心を進めるチャンスを与えられたと思うて、一段と信心の帯をしっかり締め上げていかなければならんと思いますね。
どうぞ。